あんた背中が煤けてるぜ……

 ブログデザインを徐々にいじり中。ソースを見ながらCSSをちまちま弄るのは割と好きな作業だったりするんだけど、はてなダイアリーだと色々めんどくさすぎるので、久しぶりにFirebugを使ってどうしても変えたいところだけサクッと編集。気が向いたときに地道に整えていこうと思う。

素敵な記事

■心理セラピストに教わった「心の急所」を減らす技術 ― 心のシャドウとは何か? 


 帰宅直後、なんとなく目についてさっそく読んでみた。わかりやすい。そして何よりブロガーさんの素がかなり出ているように感じられ好感が持てる。いわゆる自己開示の手法ってやつですね。


 人間多かれ少なかれ痛いトコロは持っている。当然、それを面と向かって指摘されると激痛が走る。ヘコむ。割と死にたくなったりもするかも。重ねて書くが、当たり前のことである。特に創作者や表現者、発信者の人にとってはアキレス腱そのものだったりする。
 自分ももちろんそうで、スランプ期に頂いた批評は今でも頭にこびりついて離れない。スランプ時というのはアウトプットしたモノのダメさ加減を自分でもよく理解しているだけに、より深く胸に突き刺さるのだ。ハゲの人に直接ハゲって言っちゃいけないのである。しかし、他人にそうしてもらうことは自分が乗り越えなければならない問題を現実のものとして自覚するために必要なことだったりもする。ちなみに僕も少し前髪が後退し始めた。これが現実である。

メタ認知

 自身の状態を客観的に把握することをメタ認知という。社会人となり、正しく大人となるために必要な認識能力である。
 しかし、これが結構難しい。把握し、受け入れることまでがこの能力だからだ。そして最終的には、受け入れた上で問題点を修正していく必要がある。ここまでくると指南のワザである。


 悪いところは素直に認め、過去の自分がそうであったことを受け入れる。そうして次からはできるだけそうならないように何かしらの努力をする。
 反省自体にそこまで意味はない。いつか変化させられなければ、自己嫌悪のループに陥るだけだ。最終的に改善できるのなら、その道中なんど失敗しても良いのだと思う。ただ、認知や許容は次へとつなげるためのステップなのだということは理解しておきたい。

改善のためには許容の仕方が重要

 なのかもしれないと、個人的には思っていたりする。自分自身がついぞ最近そういう流れに乗っていたからだ。
 重要なのは許容するのは、あくまで今現在の自分であるということである。つまり、理想の自分と現実の自分の距離をしっかりと見極めることこそが、許容の意義ではないか? ということだ。
 『なんだよー、意外と近いと思ってたけど全然遠いじゃねぇか!』と、そして『あんだけ遠いなら一歩一歩歩いて行くしかないわな』と冷静に感じること。実際は理想と現実のギャップが激しければ激しいほど、許容は難しくなるが、どうしても諦められないような目標であればそれは可能になる。
 そこまで来てようやく、現実離れではない身の丈にあった改善のための戦略を練ることができるのではないかと思っている。

理想の自分がブレる時

 『手段と目的が逆転する』ことは驚くほど多い。理想と現実のギャップが激しい人ほど、その傾向は強いと思う。
 かく言う自分がまさにそれで、物書きの癖に『書く楽しさ』を忘れてしまっていた。技術や効率ばかりを見つめ、いつしか書くことが死ぬほど辛くなっていた。
 そもそも物を書き始めたのはそれが楽しかったからだ。もちろんその結果としてある賞賛や見返りも大事なものだけど、最初はそのために書いたわけではなかった。
 『楽しさ』は人生にとって最も必要なことである。『書くために生きる』が『生きるために書く』となって、どうしてそれが楽しいのだろう。今になって思えば当たり前のことである。


 この逆転が起これば、理想の自分は遠ざかっていくだけでなく、ブレていく。そもそも理想の自分がどういう要素で組みてられていたのかもよくわからなくなる。少し目を離した隙に、傍目ではわからないほどちょっとずつ目標がずれていくのである。蜃気楼のような目標を目指し足をばたつかせても、本当に目指していた場所へはたどり着かない。当たり前の話である。


世界はお前なんて気にしていない

 許容の段階で必要になってくるのが自己開示である。認知した自分のネガティブな要素を、他人に知ってもらうこと。友人に話してもいい、ブログに書いてもいい、ツイッターでつぶやいてもいい。とにかく自己卑下にならないレベルで少しずつ『実は自分は〜なところがあって……』という感じで話していくのである。
 こうすることによって何が起こるかというと、現状認識が一段階上がるのだ。自分の知る自分と、他人が知る自分のギャップを埋めていく作業といえる。
 次第に妙な気の張りはなくなり、息をするのが楽になる。公的な場所でも限りなく素の自分で生きることができるようになるのである。


 もちろんなんでもかんでもさらけ出せばいいというわけではないが、人間は基本的に自分以外のことに対して無関心な所があるので、会話の中でサラッと出せば自分も相手も「そうなんだー、へー」程度の感触で済んでしまう。
 実際にそういう反応がいただけると、「考えすぎだったのか」と冷静に感じられる。そうして過剰な自己顕示欲は落ち着いていく。
 そう、世界は自分なんて大して気にもかけていないのだ。その事実に気づくころには、『俺は肩肘張らずに好きなようにやればいいのだ』と、本心から思えるようになっているはず。