自己への意識レベルが上がると他者が見えてくる

他人に評価が密集した場所というのを見ると、吐き気がするようになってきた。
例えば、ニコニコ動画。例えば、ピクシブ。例えば、はてなブックマーク
数字の評価に基づいてランキング化されたものを見ていると、なぜか気持ち悪くなってくる。


慣れていない、というわけでもない。むしろそういうのは好きだったはずなのに、今はとても気持ち悪く感じる。
多数の第三者によって評価付けられた結果形成されるランキングというのはとても有用なのは間違いない。僕も好きだ。
いつしか商品はアマゾンや価格.comで評価の良いものを買うようになっていたし、統計的に良いモノが優れているという確率は非常に高い。
でも、それでいいんだろうか? と最近は感じるのである。


僕は情報が集めるのが得意で、その為重用されるシーンが多かった。
RSSリーダーを用いて無数の記事を見る。気になる事柄は少なくない時間をかけて調べる。結果的にそれは僕の話を聞く、周りの人達にとって有益なものとなる。
僕の調べたり、試さないと落ち着かないという性格にとって、それはごくごく自然なことだった。
しかし、それには手順として統計的なものを参照する必要があるのだ。
これではまるで情報の中間管理職である。


だからといってどうというわけではない。仕事で用いるのは別段嫌ではなく、むしろ今でも大好きなことの一つだ。
しかし、私的なこととなると、途端に気持ち悪さを感じる。


今僕が体験している変化というのは『超主観』に基づいている。天才のように完全に他人の目を無視することはできないけれど、それでも視線をを自分の内面に集中させることで超えられなかった壁を超えられそうにもなっている。
変化はゆったりと少しずつの違和感となって起こり、輪郭が見えるにつれスピードを増していった。とても力強いエネルギーが溢れている。


その反面自己に集中することを覚えてから、他者の有り難さや怖さをより感じることができるようになった。
こうして書いていると自然なトレードオフに思える。
他者が存在するからこそ、自己の再認識が可能であり、自己を再認識することで、他者の再認識も可能になるということなのかも。
とても生々しい感覚である。


自己への集中はまだ足りていないと思うけど、こうして感覚の変化を感じると落とし所を考えないといけないのかもしれないなぁと感じる。
創作者として生きるつもりだけど、今の僕の本業はビジネスマンだ。どちらも中途半端になる可能性が怖い。
中庸という言葉があるけど、何もかもがそういい塩梅にいくわけではないし。


そういうことを考えつつ、風呂からあがると滑って転んで頭を強打した藤田であった。残念ながらタイムマシンの設計図は思い浮かばなかったですけど。