面白い物語構造とは 〜ファイトクラブとコラテラル〜

今朝の日記を書いているときにはなぜか思い出さなかったんだけど、『ファイト・クラブ』とかなり近い作品として『コラテラル』という映画がある。


マックスはロスのタクシー運転手。いつかリムジン・サービスの会社を持つことを夢見て今の仕事は腰掛だと思いながら日々働いていた。
ある日、マックスは検事のアニーを乗せる。社内での会話から、2人は互いに好感を持つ。アニーをおろした後に乗せた客は、ヴィンセントという男だった。一見ビジネスマン風。一晩で5箇所を回って仕事を済ませなければならないのでマックスの腕を見込んで、ハイヤーとして雇わせてくれてと言う・・。
マックスは高額の報酬に釣られて承諾。だが、ヴィンセントは実は麻薬組織に雇われた殺し屋で、裁判で不利な証言をする者たちを消すのが仕事だった。

映画の脚本技術はかなり確立されており、構造分析が非常にしやすい。
物語は3つに分解される。


■状況設定(第一幕)
■葛藤(第二幕)
■解決(第三幕)


そしてそれぞれの幕間に物語を大きく動かす出来事が設定される。これらはプロットポイントと称される。
第一幕のお尻(プロットポイント1)には、問題提起(葛藤の原因)を生み出す事件が起きる。これには主人公の意志や行動は関係しないこともある。
(いわゆる巻き込まれ型の物語)


しかし、第二幕のお尻(プロットポイント2)には主人公の意志や行動が必要不可欠である。
それが何故かというと、『物語は主人公の選択によってエンディングを迎えなければならないから』だ。
事件に巻き込まれた主人公は驚愕し、自分の弱さと戦う。時に逃げ出したりすることもあるかもしれない。それでも主人公は決着へと向かう意志を持たなければならない。それがよくいわれる『主人公の成長』の判りやすい表現であり、『主人公(ヒーロー)』の資格だからである。


ファイト・クラブ』の主人公は自己の弱さを認め、ヒロインを守ろうとし、最後には"彼"に打ち勝つ。
コラテラル』の主人公は敵に自分の弱さを叩きつけられるが、やがてそれを認め、自分を変えようと決意する。そして、敵と直接対決し最後の標的であるヒロインを守り切る。


こう書きだしてみると、この2つの作品が構造的に似ているのが分かる。
もちろんこれ以外の作品、映画でなくとも似た作品はたくさんある。だが、この2つには『主人公は当初、自分の弱さから逃げている』という共通点もあるのだ。
つまり、これらの物語は『自分に打ち克つ』ことが最終目標であり、実際に主人公と対立する役割としての"敵"は、主人公の願望の投射体であるということが分かる。『自分の弱さ』を突きつけてくる"敵"は、主人公にとって『憧れの対象』でもあるのだ。


そう考えると、この2つの作品は非常にミクロな物語だということが分かる。なにしろ究極的には主人公の気持ちの話なのだ。ぶっちゃけた話が、役割としてのヒロインなどほとんど必要ない。
しかし、『自分の弱さ』というのが具体的にどういうモノかを設定してやれば、恋愛がメインの話も作れる。主人公には恋愛へのコンプレックスを持たせればいいだけの話だ。例えば、映画『マスク』などはそうして出来ている。


ファイト・クラブ』と『コラテラル』はこれだけ似ている話なのにも関わらず、評価にかなり差がある。100点満点で言えば、前者は95点、後者は75点。大体20点くらいの開きがある。
この点数の差は一体どこから来ているのだろうか? そして、物語のどの要素がポイントを稼いでいるのだろうか?


ここからは個人的な意見となってしまうが、構造としてきちんと組み立てられているならば、そこから先は『設定の必要性』、『ダブルニーミング』や『暗喩』といった物語の強度を高める要素がモノを言うのではないかと思う。


例えば『ファイト・クラブ』の場合、主人公のサラリーマンという設定には確固たる必要性がある。それは主人公の願望が反社会的なものだからだ。
物語は始まりと終わりのギャップが大きければ大きいほど、面白くなる傾向がある。
そうなると作品テーマが『反社会』なのであれば、変化を体現する主人公はどこまでも『社会的』である方が良いといえる。
一方『コラテラル』の主人公のタクシー運転手という設定には、そこまでの必要性が見いだせない。そこまで激しいカーチェイスがあるわけでもないし、あえていうなら『主人公・敵・ヒロインの接点を作るため』ぐらいだろうか。だが、それであれば他にも良さそうな設定はいくらでもある。


敵との関係性にしても、すべてが明らかになる段階で主人公との密接な関係性が描かれる必要があるのだろう。
前者の敵である"彼"はネタバレになるので言えないが、主人公との繋がりはどこまでも強固だ。
だが、後者の場合は『たまたま乗り合わせた暗殺者』である。例えば、彼が主人公の顔もしらない兄だったりしたならどうだろうか。もう少し物語強度は高めることが出来たように思う。いずれにせよ、彼が主人公のタクシーに乗り合わせた理由が"たまたま"というのは頂けない。フィクションに偶然は許されない。すべてが必然であるのが理想なのではないだろうか。


『ダブルニーミング』や『暗喩』については説明が難しいが、作り込む上で気の利いたそれらを練り込められれば、それはないよりは遥かに良いに違いない。
なにしろ映画は映像媒体なのだ。物語だけでなく、カメラに映る全ての物が商品である。出来ればそれらにも何か面白みがあれば、より素敵な作品となるに違いない。場合によっては、映画だからこその作品となるのかもしれない。