さぁ、正義の話をしよう 〜ブヒるとは正義である〜

あなたに正義はありますか?

 自分が正しいと思うこと。社会的に正しさを求められているもの。それらは『正義』と呼ばれています。


 今日はその正義について語りたいと思います。

僕の、正義だった

 僕の本質は文章家です。ですが、文章とは難しいもので技巧的なものを考え始めるとたちまち楽しさが失われていく危うさをもったモノです。そうして僕は技巧の先に自分の求める『正しさ』があると信じて進み続けました。


 しかし、その先に待っていたのは文章が一切書けなくなるという強烈なスランプでした。理想を求めれば求めるほどに、自分の今のカタチはどんどん違ったものへと変化していってしまう。このスランプは4年もの間僕を苦しめ続けました。

これは英雄の物語ではない――


 Nitroplusという18禁ゲームブランドが出している『装甲悪鬼村正』という作品に出会いました。キャッチコピーは見出しの通り。


 僕は、この作品をプレイして衝撃を受けました。なんて本質的な物語なんだろうと。


 軽くネタバレになってしまいますが、どうしてもこの先の話につなげるために少し中身の方に触れてみたいと思います。
 本作の主人公は村正という意志をもったパワードスーツのようなモノと契約をしているのですが、正義のために人を殺めると、同じように自分の最も親しい人を殺さなくてはならない呪いが掛かっているのです。


 主人公の敵対する相手は、大衆を苦しめる大悪ばかりです。なのにもかかわらず、彼は悪を打ち滅ぼす正義として振る舞えば、同じく大事な人を殺さなくてはならない。この大きな矛盾に物語の本質が込められているのです。


 主人公は言います。『完全な正義などない。力を振るう時点でそれは見方を変えれば悪にもなるのだ。だからこそ決して正義などと言って暴力の理由に甘んじてはいけない』と。

正義は存在しうるのか?

 結論として、正義は存在します。ただし、それは客観的なものではありません。超主観、つまり個人個人の中での正しさなのです。しかし、同時にそこには客観的な善悪が伴うということです。


 例をあげましょう。人災とまで言われている3.11。東電幹部を誰かが殺したとします。世論的に見れば、これは正義といえるかもしれません。もちろん殺した張本人はそれを正義と信じて疑わないでしょう。
 しかし、法的には? 殺された幹部社員の家族にとっては? 悪として写ってしまいますよね。


 つまり、正義として振る舞うなら、その行動の末に生まれる悪を許容する覚悟をもって行動しなければならないということです。仮に社会的正義が肯定されるなら、行動を起こした本人にその後の全てを甘んじて受け入れる覚悟があるかどうかで決まるでしょう。しかしそれも、結局は正義を行使した側の自己満足であることは理解しておかなければなりません。

僕のなかにある正義

 スタンスといってもいいかもしれません。僕は批評的な文章に傾倒して、今は原点回帰的に超主観で文章を書くが自分の中の正義だと思ってます。判断基準は自分にとって心地よいか、メリットがあるかどうかという点です。


 しかしだからといって、僕は他の人が書かれる批評や考察を見下したり馬鹿にしたりするわけではありません。積極的に触れるのは自分の超主観に影響が出てしまいそうなので自粛はしてしますが、なんといって面白いものは面白いのです。読み手と書き手の意識の分離が少し進んだのかもしれません。

ブヒるは正義だ

 受けてとして徹する場合、萌えることの極地である『ブヒる』というのは正義だと思うんですよね。これは超主観で『だれがなんといおうとかわいいんだ!』という強烈な主張が伝わってくるからです。


 そういう意味で僕は『ブヒる』という言葉が好きです。あれは他人をディスる言葉としてはちとアレですが、自分で自虐的に使うぶんにはとても的確で面白い表現だと思うのですよ。


 ちなみにぼくも頭をからっぽにしてアニメを観たりするときは存分にブヒってます。

ミニマムな正義たち

 東電幹部殺傷事件となると正義の規模も大きくなりますが、個人個人が持つ正義というのはある程度弊害もすくないのではないかと思います。
 ただし、できれば自分のスタンスに対する批判は甘んじて受け入れないといけないですし、自分の正義を掲げて他人にとっての正義をこき下ろすなんてのもご法度です。それはもはや正義ではなく、悪になってしまいますからね。


 僕は感じたままに見るよ(ブヒる)。僕は感じたことを客観的に考えるよ(批評)。どちらも正義です。とても個人的な、ミニマムな正義といえるでしょう。


 それらの正義は、僕らが生きる上で選択していかなければならないかと思います。

きっかけになった記事


 最近よく絡んでくださるひいろさんの記事です。彼女はきっと、完全な主観の読み手から客観的な批評文に触れ、理解の深まりを楽しんでいたのでしょう。ですが、そこに何かのねじれを感じてしまった。
 そこからどう彼女が自分なりのスタンス(正義)の種をつかむかまでの話が書かれてあります。


 個人的に面白かったので燃え上がって今回は正義に絡めた記事にしてしまいましたw