自称大人が溢れている
朝からとても素晴らしい記事を読んだ。
僕が常々思うのは、果たしてどれだけの人が正しく『大人』として育っているのだろう、ということだ。長らく接客業に従事していた自分にとって、社会的にいわれる『大人』というのは、とんでもない幻想のように思える。その一方で大抵の人は疑いもなく自分を『大人』だと信じ込んでいる。
- 7〜8割の人がお礼を言えない
- 3割の人が目の前にゴミ箱があるのにも関わらずポイ捨てする
- 迷惑行為を注意されると逆切れをする
- トイレを無断利用する
接客業ではこういった人たちも『お客様』として扱わなければならないとされているが、ぶっちゃけた話がクソッタレである。客と店員の関係は決して主従関係ではない。しかし、店を訪れるお客様の中には客であることを振りかざし、横柄な態度を取る人が少なくない。
そういう嫌なお客を相手に笑顔で対応しなければならないとき、僕はいつも『大人』ってなんだろうなぁと思っていたものである。
挨拶をする。何かをしてもらったらお礼を言う。間違ったことをしたら素直に非を認め謝る。
いずれも、小学校までには習うことだ。しかし実際に見渡してみると、あまりに出来ていない自称大人が多い。大人になるというのは成人するということだけで判断していいものなのか? そうするにはあまりにも問題がありすぎると感じる。
ある程度正しく『大人』でないと、『親』になってはいけないと心底思う。子供のいる夫婦の離婚裁判では、どちらが引き取るに相応しいかあれほどまでに検討されるというのに、これから生まれる子供に関しては関知されない。冷静に考えてみれば不思議なことである。
世の中には未成年で子供を産む人もいる。両親は社会的に未成熟だろうし、もちろん人格的にも未成熟なことも多いだろう。もちろん中には親として子供を育てることのできる立派な人もいる。だが、実際は圧倒的に未成熟なことが多い。文字通り、子供が子供を育てることになるのだ。それがどういった結果をもたらすのかは、世の中を見渡してみればよくわかるかと思う。
もっと質が悪いのは、社会的に大人だと認められ、実年齢もそれなりにくっているのにも関わらず中身は子供のままの大人である。極端な話が、自分のことしか考えていない人だ。
彼らは自分のためになることであれば、基本的になんでもする。もはや手がつけられない。誰も彼をも押しのけて自分の権利を主張する。
法律や条例を突きつけてやれば、今度は感情論で勝負してくる。場合によっては暴力が出る場合もある。
もちろん程度の問題はあるが、自己中心的なことに変わりはない。一見すると普通に見える人でも、特定の事柄に対しては人が変わったようになる人もいたりする。
こうやって見てみると、彼らには『恥』という概念はないのだろうかと思ってしまう。だが、実際には彼らにも恥はあるのだ。それが社会の一般常識とかけ離れているだけで。つまり恥の程度問題なのだろう。
児童虐待をする親には、ご近所付き合いのために体面は繕っているケースもある。子供が自分の思うとおりにならないと癇癪を起こす。しかし、それを知られたくないがために、肌が露出する部分は殴らなかったり、跡のつかないやり方で虐待をしたりもする。
彼らにとっては子供は自分の世間からの評価を作り上げる要素なのだろう。子供が優秀であれば、優秀な子を持つ親という世間体が得られる。一方で、体罰をするのは子供のためという言い訳も獲得できる。
こういった心理を見ていくと、自分のために自分以外のモノを思うがままにするが、自分自身を変えようと思えない(思わない)のだろう。
親が子に教えなければならないことは、親にとって都合の良いルールではない。社会的に最低限間違った生き方をしないためのルールだ。
それは、
- 挨拶
- 何かをしてもらったときはお礼を言う
- 間違ったことをしたら素直に認め、謝る
この3つに集約されるのではないかと思う。
ただし、教え方が大事なのだ。親がこの3つを正しく行えていなければならない。言葉で伝えることもよりも、より大事なのは行動で示すことだ。
もちろん完璧な大人はいない。だが、この3つさえ出来ていない自称大人があまりにも多すぎるのではないかと思う。そしてそんな子供親に育てられた子供もまた自称大人へと育っていくのだろう。
『親』は選べない。しかし、その子を生んだのは紛れもなくその『親』であることを忘れてはいけない。そして子供は子供である前に、一人の人間として扱わなければならない。
『子供』が『親』に認められたいと思うのは仕方のないことだ。認めてやることが親の仕事であり、責任だからである。だが、『親』が『子供』に認められたいなどと思っていてはいけない。『子供』に対し、自分の利となることを勝手に求めてはいけない。
子供は敏感だからその理不尽という矛盾に気づく。
子供の疑問や親の矛盾に対する指摘に、どれほど誠実に答えていけるかが重要なのではないだろうか。
なんにせよ、親が持つ子供への『当たり前』という感覚ほど疑った方が良い気がする。正しい理由がなければ、子供は決して納得しない生き物なのだから。
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正論すぎてワロタ。今の世の中真面目に働くと死んじゃうよ。
出版は才能ある作家あっての商売だということを、もう一度よく考えたほうが良いと思う。変にへりくだる必要はないけど、お金の面は別だよなぁ……。
コンサル業務でもこういうの多い。リスク回避料じゃねーぞバカヤロウ。
そんなことやってから海外に……。
これだけ解ればどんな時代でもやっていけると思う。
>「批判=作品否定と読み替える」
近所にほしい。
『フルメタルジャケット』を観たので
久しぶりにMAD漁りしてましたw 面白すぎるw
特にこれいいですね。
こんなのもw
未だに投稿する人がいるっていうのは驚きですねぇ。
これといい、『プライベート・ライアン』といい、戦争映画はMAD素材として使われやすいですけど、なんでなんでしょうね?
激しさとのギャップが笑いを生み出すのか……w
./ ;ヽ
l _,,,,,,,,_,;;;;i <いいぞ ベイべー!
l l''|~___;;、_y__ lミ;l 逃げる奴はニコ厨だ!!
゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げない奴はよく訓練されたニコ厨だ!!
,r''i ヽ, '~rーj`c=/
,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ
/ ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー
|;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri
l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / |
゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l
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『CUBE』観ました&雑談
[内容解説]
- 出版社/メーカー: ポニーキャニオン
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ある日突然理由もなく、男女6人が鋼鉄の立方体の部屋に閉じ込められる。そこは他にもたくさんの同じ部屋があり、その集合体で作られた、巨大な立方体(CUBE)になっている。
各部屋に6つあるハッチの中からひとつを選び隣室へ移動しながら出口を探す以外、脱出方法はない。しかも部屋には様々な殺人トラップが仕掛けられている!
そんな極限状態の下、絶望的なサバイバルを繰り広げる6人。
やがて一つ一つ謎と罠をクリアしてゆくうちに、彼らの精神状態が徐々に狂い始めてゆく・・・果たして無事にこのCUBEから脱出できるのか?あるいは本当に出口はあるのか? 今ギリギリの緊張の中、死のゲームがセットされた・・・
最近は友人のおすすめを勧められるがまま、ホイホイと見てます。この作品は初めて観たんですが、なかなか面白かったです。
観終わった後、ネットで評判を見てみたんですが賛否両論みたいですね。
よく書かれていたのが、『設定や伏線を回収せず、後味の悪い終わり方』という内容のもの。僕もちょっとは気になったんですが、途中から「あ、これそういう見方をして楽しむ映画じゃねーや」と感じました。
近頃はなんとなく自分がどういうモノの見方をするようになったのかが、言葉にできるようになりました。
基本的にエンターテイメント野郎なんですけど、気づきやすい暗喩とかが入ってると良いよね、という感じ。『隠れた名作』なんていう言葉がありますが、それはやっぱりどっかがわかりにくいからなんでしょう。言葉でもそうですが、偉そぶったり、賢く見せたりしようとして、難しくするのってあんまりよくないんですね。
僕が最近評論的なのが嫌いというのは、こじつけがひどくないか? という理由です。
『この作品には現代社会の〜といった傾向が無意識的に現れた〜』みたいな。確かにそうかもしれないし、そういうのを読むことで作品への理解や情が深まることも多いんだけど、それってやっぱり作品自体を見ることとはなんか違うくね? と。
凝り過ぎた暗喩は作り手のみしかその真意を理解できる形にはなっていないだろうし、メタ的な構造も作り手が意図したものかどうかというのは実際のところわからんわけです。
作り手本人が解説してるならいいのだけど、一観客が『〜は〜だ!』と断定してしまうのは実は怖いことなんじゃないかなー。
そしてそういうのが理解できないと、面白くないという作品はあり方が難しい。商業的な作品や、求められて作られたものであればなおさら。少なくとも僕はあんまり好きじゃない。
昔、友人が現代文のテストで一問ミスをして満点を逃したことがあった。友人はそれに納得がいかず、先生に尋ねたが満足を得られる回答が返ってこなかったので、意地になり電話で、テストに使用された作品を書いた作家さんに確認をとったそうだ。結果、彼のテストは100点となった。
まぁ作り手の意図や本心というのも大事だけど、結局は『作品』を見てどう感じるか、どう思うか、というのがまず重要なことだろうと思う。はっきりしないことがほとんどの分野なので、事実と主観のあれこれをごちゃまぜにはしないほうがいいよね。解釈を公にするということは、他社へ向けた提案の一つなのだということを忘れないようにしたい。